カレーになりたい 181117

少し足りないくらいがいい。
いつもそう思っている。今日、霧雨の降る寒空の下、成都の街中をウロウロと歩いた。行きたいと思っていた肉まん屋を見つけてひとつ注文する。日本で肉まんを僕は食べた記憶がない。それくらい縁遠い食べ物だ。ところがその肉まんは、信じられないほどおいしかった。皮を手作りしているのは言うまでもなく、具の部分は自家製発酵させた食材を取り入れていたりとずいぶん手間のかかっているものらしい。ただ、そういうことよりも、寒空のもと、テイクアウトしてハフハフしながら食べたということがかなり印象を上げたんだろう。
その後、近くにある旧市街地を歩く。すっかり観光地化しているからつまらない。スターバックスを見つけて入り、3時間近く、原稿を書いたりした。来季からリスタートするカレーの学校について、卒業生たちへの簡単なメッセージなんかも書いた。ひと段落ついて、近くの公園へお茶を飲みに行くことにした。さっきの肉まん屋の前を再び通る。さて、小腹が空いたし、もう一度たべようかな。食べようかなというよりむしろ、食べたい、と思った。あのおいしい味の記憶を思い起こしながら歩道橋を渡る。降りた目の前が肉まん屋だ。
階段を降りきったとき、やっぱり買うのはやめにしようと思った。
少し足りないくらいがいい。
欲しいものがなんでも手に入ったらつまらない。肉まんは10円ちょっとで買える。目の前にある。でも買わなかった。買わずに通り過ぎたことで、一度だけ食べたあの肉まんは、僕の心により深く刻まれた。次にあの肉まんを食べられる日がいつ来るかはわからない。ただ、もしかしたら、次に成都に来ることがあっても、あの肉まんはもう食べないほうがいいのかもしれないとも思う。僕の記憶の中で年を追うごとに肉まんの味は美化されていく。美化したものを思い起こして味わうほうがいい。僕はそういうのが好きだ。現実的な食欲は満たされれば終わるけれど、肉まんをめぐる妄想は永遠に終わらない。10年後、15年後、僕があの成都の街角の肉まんについて誰かに話すとき、きっと「世界一おいしい肉まんがあってさ」となっているのだろう。心残りがあるほうが「いつかまた」と気持ちが前を向く。
少し足りないくらいがいい。
そういえば、僕がいつも言っている「カレーはおいしすぎないほうがいい」というのに通じるのかもしれないと思った。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。


*

CAPTCHA


▲UP