カレーになりたい 181113

過大評価されるくらいなら、過小評価されていたい。
等身大の自分を理解してもらえたら最高だけれど、ほぼ無理なことだから、「すごいですね」と言われるよりも「たいしたことないね」と言われていたいと思う。それがうまくはいかない。うまくいかないからせめて、できるだけ過大評価につながりそうな言動をしないでいる。そうすると心地よく、自分が自分でいられる気がする。
カレーを作ったとき、「おいしいですよ。いかがですか?」とは言わない。
本を出したとき、「よくできたんで、ぜひ読んでください」とは言わない。
イベントをするとき、「面白いから、ぜひ遊びに来てよね」とは言わない。
言わないというよりも言えない性格なのだ。
だから、広告宣伝が最も苦手な行為だ。意図的に過大評価を獲得するようなことにつながりかねない。
大好きな将棋棋士の故・升田幸三は、「勝負はその勝負の前についている」と言ったらしい。僕もそう思う。僕がカレーを作るとき、僕が本を書くとき、僕がイベントをするとき、その結果がどうなるのかは、そこにどれだけの情熱をささげてきたかで既に決まっている。これまでにどんなことを培ってきたのか、もっと大げさに言えば、そこに至る44年間をどう生きてきたかによって結論は出ている。だから、その前後でジタバタしたくない。したくないのではなく、できない性格なのだけれど。
札幌で20数年ぶりに旧友に会った(最近、こういうのが多い)。
「仁輔さん、ケータイ持つのやめたって聞いてたから、どうやって連絡取ったらいいんだろう、と思ってたんです」
彼女にそう言われて、はっとした。そういえば、もう僕はすっかりスマホユーザーなのだけれど、僕がまだケータイを持っていないと思い込んでいる人は結構いるのかもしれない、と。
あの頃、僕は、ブログをやめ、SNSをすべてやめ、ケータイを解約した。そうしてから3年ほどカレーの活動をしただろうか。あの期間に色んなことを考えさせられた。そのひとつが、活動スタンスについてだった。告知ツールを持たないということは、カレーを作っても食べてくれる人がいるかどうかわからない。本を出しても読んでくれる人がいるかどうかわからない。イベントをやっても来てくれる人がいるかどうかわからない。そういうことだった。すべてを手放してみてから気づいたことだ。
あのとき、僕が感じたのは、目の前にあることに全力を尽くすことの大切さだった。だって、僕からは何もお知らせや宣伝はできないのだ。それなら、たまたま僕の作ったカレーを食べてくれることになった人に、「また食べたい」と思ってもらいたい。たまたま僕の本を手に取ってくれた人に「ほかの本も読んでみたい」と思ってもらいたい。たまたまイベントに顔を出してくれた人に「今日は本当に来てよかった」と思ってもらいたい。そのために僕ができることは、できるだけ作ることに情熱をささげることだったり、できるだけ準備をすることだったり、本番で力尽きるまで走り抜けることだった。
自分のことを売り込んだり、魅力的に見せたり、身の丈以上の評価を得ようとしたりすることが苦手な僕にとって、便利な告知ツールを持たない3年間は、自分なりの活動スタンスを見直すとてもいい機会だったと今でも思う。あれやこれやを実際に手放さなかったら、気がつけなかったことだったと思う。
だから、いま、僕の周りで「もっと上手にやればいいのに」とか「そんなことじゃもったいない」とかアドバイスしてくれる人がたくさんいるのは、すごく嬉しいし、そういう人のことは大切にしたいと思うけれど、一方で「それは僕のすることじゃないんだよな」といつも思ってしまう。
そういうことが上手にできる人は世の中にたくさんいる。でも僕は圧倒的にできない人なのだ。上手にできない自分の処世術は、目の前のことに全力を尽くすことだ。あとさきのことは考えたくない。必要以上に宣伝したくはない。仮に僕のSNSにフォロワーが10万人いて、僕の発信したことが一瞬で10万人に届くような立場にあったら、僕は過大評価が怖くて何もできなくなってしまうだろう。
自分が情熱を注いだものはそれなりに誰かに届くだろうし、それがいいものならいいものなりに誰かの心をうつだろう。その隣りにたまたま居合わせた人にまで届けたいとは思わない。どこかの誰かがたった一人でも「今日は最高でした」と言ってくれたなら「僕も最高でした」と言って今日を終わりたい。ジタバタしても仕方ない。ジタバタできない自分だから。
だって、「勝負はその勝負の前についている」のだから。
 

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