カレーになりたい 181015

東京にいるのに自転車で移動できなかった日は、何となく不完全燃焼な気持ちになる。打合せが立て続けに入っていて移動時間を考えると電車で移動せざるを得ないとこうなってしまう。仕方がないから電車の中で本を読む。鞄の中には、ウディ・アレンの本と将棋の本と四川の本が入っている。これをランダムに読んでいくのだけれど、将棋の本にあった観戦記で阿部八段の昔話にジーンと来てしまった。
 
「芹沢先生は『1五歩と突かれて取れないようでは美濃囲いの端歩を突くな』っておっしゃっていましたね。大内先生も同じ意見で『だから俺は穴熊にするんだ』と。いまとなっては懐かしいよね、そういうの。昔聞いたときに格好いいなと思ったんだ」
 
哲学というのは、それを持つ人独自の理屈によって成り立っている。
たとえその理屈が崩れても哲学は美学となって残るのだろう。
僕がカレーの世界でやっていることは、哲学に惹かれながらも理屈で崩そうとしている行為なのかもしれない。
だから、哲学を美学として残すための活動も同時並行的に行っているつもりだ。
将棋の昔話をカレーの世界に置き換えてみる。
 
「芹沢シェフは『アメ色になるまで炒められないようでは玉ねぎは使うな』っておっしゃっていましたね。大内シェフも同じ意見で『だから俺は蒸し煮にするんだ』と。いまとなっては懐かしいよね、そういうの。昔聞いたときに格好いいなと思ったんだ」
 
時代が変わり、知見がたまったり技術が進歩したりすれば、かつて支配的だった理屈がいつまでも通用するわけではない。日進月歩は将棋でもカレーでも起こっているのだから。でも進歩が必ずしもいいとは限らない。
「昔聞いたときに格好いいなと思ったんだ」と誰かに言わせるような魅力は、カレーの世界にもあるはずで、でも、それは、日に日に消えゆくものなのかもしれない。将棋の名言というものを趣味で集めているけれど、名言だと思う言葉は、古い棋士のものばかり。
昔の棋士と今の棋士が対局すれば、圧倒的に今の棋士のほうが強い。進化した将棋を習得しているのだから。同じように、昔のシェフよりも今のシェフのほうがカレーは上手に作るのだろう。でも、上手に作ったカレーがおいしいかどうかは、別問題だ。哲学や美学にしびれる気持ちを持っていれば、カレーに感じるおいしさも変わってくる。
僕は、カレーの世界で、哲学が理屈で消されそうになる前に美学へと変身させるサポートをしたいと思った。そして、こういうことは、電車ではなく自転車に乗りながら考えたかったな、とも思った。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。


*

CAPTCHA


▲UP