カレーになりたい 180913

アドバイスというのは、どういうことなんだろう? と考えさせられている。
相談に乗るというのは、どういうことなんだろう? と考えさせられている。
おしえるというのは、どういうことなんだろう? とも考えさせられている。
 
生まれて初めて本を出すことになった、という友人に「相談に乗ってほしい」と話があった。本を出す人が僕にアドバイスを求める、僕の話を聞きたい、というのは、わからないでもないし、うれしい話である。
僕は、これまでにカレーの本を50冊ほど出版してきた。自費出版レーベル「イートミー出版」も立ち上げているから、そこから出した本も合わせれば、100冊以上の本を作ってきたことになる。ギネスに申請すれば、通るのだろうか。世界一たくさんカレーの本を作った人。
だから、初めて本を出すことになった、右も左もわからない人に僕が伝えられることはたくさんあるのだろう。夜遅く、BARで合流し、酒も飲まずに3時間以上、話を聞き、そして話をした。
なんとか友人のためにチカラになりたいという思いで一所懸命話をしながら、一方で、自分の中に小さな疑問が生まれてくる。このアドバイスは本当に的確なんだろうか。最終的に役に立つものなんだろうか。
1ジャンルに特化して100冊以上の本を出してきた僕は、このジャンルに限定していえば経験値は誰よりも高い。高いところに上っているわけだから見えている景色はまるで違うものだ。その僕が見ている景色を伝えれば、そこにはおびただしい数の役立つ情報があるのかもしれない。聞いた話をすべてうのみにするわけではなく、聞いたうえで自分が動くときに選択するわけだから、実体験を伴う情報はあればあるだけ参考になるのかもしれない。
僕は、100冊の本を作るとき、1冊ずつに入魂してきたから、その本を作っているときにその本の行く末は見えていないし、次の本のことも見えていない。1冊ずつ向き合って作ってきたことを今振り返って俯瞰してみれば、ずいぶん、いい景色にも見えるし、それを編集して伝えれば、とてもスッキリした内容にまとめることはできる。でも、そうやって僕が本を作ってきたわけではないのだ。いま僕はここにいて見晴らしはそれなりにいいけれど、次の本の話が来たときは、見晴らしのいい場所で冷静に作戦を立てるのではなく、周囲が見えなくなって次にやってきた本のことしか見えなくなって、その1冊に向き合って本を作るのだ。
アドバイスするとか、相談に乗るとか、教えるとかいう行為は、基本的に知っている人が知らない人にする行為だし、経験している人が経験していない人にする行為なのだけれど、もしかしたら、それを受け止めた人にとってプラスになるとは限らないんじゃないか。
生まれて初めて本を出すことになった。水野が知っていることをたくさん話してそれを理解してうまく選択編集して、テクニック的に上手に処女作を作るよりも、水野から何も受け取らないまま体当たりで向かうほうが、いいものができるんじゃないか。
そうやって僕はやってきたわけだし。
効率よくやるとか、上手にやるとか、そういうことを求めているのならアドバイスは機能する。でも、その友人に僕はそんな風にうまいこと本を作ってもらいたいとは思わない。
そもそも僕は、自分の持っているものを教える、みたいな行為に根底で少しだけ違和感がある。カレーの学校やら、料理教室やらをしているけれど、「先生」的な立場にいることにどこか居心地の悪さを感じている。
僕は、教えるよりも教わっていたい。僕だって現役でもがいている人間なのだ。いっちょあがりみたいな立場で先生をやってる場合じゃない。だから、たとえばカレーの学校の授業で僕の基本的なスタンスは、「僕はこう思います。僕はこうしています。みなさんはどうですか?」である。「こういうことなんです。だから、覚えておいてくださいね。こうしたほうがいいですよ」とは言わない。
最近、どういうわけか、アドバイスを求められることが増えている。コンサルティングみたいな仕事は僕の性格には全く合わないものだ。
BARで“相談に乗っている”途中でそんなことがよぎったから、僕は、本を作るうえでのテクニック的な話はできるだけしないようにして避け、自分はこう考えてこうやってきた、という話に終始することにした。その話だって本当はしないほうが友人のためだとも思ったけれど。
これからも誰かにアドバイスをし、相談に乗り、教える機会はたくさんあるのだろう。求められれば自分なりに応えたいと思うけれど、やっぱり僕自身は自分で考えて自分で動いて痛い目にあって学んでまた考える。そういういつまでも青臭いことをやり続けていきたいと思った。

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