カレーになりたい 180729

「今この時代を生きていること」の実感や喜びや充実感みたいなことが、いろんなことの前提になっているんだろうな、と二度目のジョギングをしながら考えた。今の時代を実際に生きているのだから、多くの人がそこを求めるのは当たり前のことだ。でなかったらなぜ今生きているのかがわからなくなる。
一方で、僕は自分が考えていることや嗜好していることが、「なかなかわかってもらえない」、「なかなか伝わらない」と思うことが多いのは伝達能力不足もあるけれど、それ以上に、僕が「今この時代を生きていること」の喜びをあまり求めていないからなんじゃないか、と思った。
流行っていることや話題になっていることやみんなが注目していることに反応しない自分の性格は、それが原因なんだと思う。(まあ基本的に自分が天邪鬼だからなのだけれど)
60年代70年代のオールディーズの音楽ばかり聴いているのは、懐古主義だからではない。その時代を懐古しても僕の記憶にリアルタイムに刻まれている音楽はない。音楽でも文学でも落語でも映画でも芸術作品でも、今この時代に話題になっているものに食指が動かないのは、それが原因なんだと思う。
僕はたまたま1974年に生まれ、きっとあと40年近く生きて死ぬんだろうから、その間、カレーのことをやり続けることになるのだけれど、もし僕が1950年代に生まれていても、2000年代に生まれていても、カレーでやることの根本は変わらない。
時代を経ても変わらないことに対して憧れがあるから、いま話題になっているものは、30年たっても話題になることがあれば、触れてみようと思う。オールディーズ音楽には、30年間、熟成されて時代を経て残ったという、(ある種、僕の利己的な解釈からくる)安心感があるから聴きたくなるんだと思う。
僕のカレーの活動が30年後、50年後に廃れて消えている可能性は高いのだけれど、今この時代に呼応させることを目的に動くのではなく、時代を超えても変わらず残ってくれることを信じて動いてみたいと思っている。僕はきっと今の時代を生きているにも関わらず、今の時代を生きていないんだろうなぁ。それって、どこかの誰かからすれば、すごくもったいない人生を歩んでいることになるんだろうなぁ。
ただ、今この時代にたまたま僕が巡り合えた人との関りだけは、大切にしたいと思う。
そんなこんなを二度目のジョギングの最中に考えた。ずいぶん長いこと考えたような感じがするけれど、二度目のジョギングで僕が歩かずに走り続けられた時間は、たったの20分ちょっとなのである。
  

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