カレーになりたい 180711

最近、自分がトークイベントで話したことや誰かと対談した内容をテープ起こししてテキスト化した原稿を読む機会が増えているけれど、やっぱり話し言葉と文章の文字とは別物だよなぁ、と思う。話しているときは、その場の空気、相手がいるときは相手との掛け合いの中で言葉を選び、空気を読みながら言い方を選んでいる。それをそのまま文字化するとどう加工しても調整しても違和感が残る。
やっぱり、しゃべったコンテンツは音声や映像でアウトプットし、テキストでアウトプットするものはそれ用に書いたものが伝わりやすいのかな。きっと今後はそうなっていくんだろうな。対談ものとかをWEBで読もうとすると、斜め読みになってしまうのは、僕がその違和感を前提にしているから身が入らないということなのかもしれない。印刷物だとちゃんと読むのは、紙が好きだからなのかな。
 
いや、違うか。
 
最終アウトプットをどのメディアに設定しているかが大事なのかもしれない。僕にとってイベントでのトークは、イベントに来てくれた人に対して伝えたいことを話している。そこでゴールテープを切っているし、そのゴールに向かって準備をしている。それが後に転用されて他のメディアに掲載されたときは、すでに「ついでに……」というイメージが強いから思い入れを持てなくなってしまうのだ。
書籍や冊子など、紙媒体でアウトプットするために取材として誰かと対談をするのは、紙に印刷された状態をゴール設定した上で誰かと話をするから、話しているときにゴールを迎えることはない。「これをテープ起こしして編集して印刷するんだよな」と思いながら話しているから、紙ものができあがったときがアウトプットになる。そうやって作られたものは、身を入れて読もうと思うのだろう。
 
転載したな、とか二次利用してるんだな、が見えると冷めるということなんだな、人のものでも自分のものでも。整理してみると、単純なことだった……。
 

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