カレーになりたい 180626

旅によく出ていると、自分の感覚を訓練しているような気持になることがある。
日程は決まっている。やりたいこともある程度、決めている。ゆるく計画を立ててはいる。けれど、実際に旅してみると、予定通りにいかないことが山ほど出てくる。そのときに、自分的には“感覚を訓練”することになる。
ポルトガルにポルトガルならではのカレーを探りに来たけれど、サブの目的として、ポルトガルのインド料理も探りたいとは思っていた。限られた日数でインド料理店へ行けるタイミングを見つける。インド料理店もいくつかピックアップしてある。特に現地の書店で入手したいい感じのガイドブックに気になるカレーを発見。目的の店に足を運んでみたら、「カレーはないよ」と言われた。仕方ないかな、と並びの店を見てみると、インド料理店がある。メニューを見ると、ラムビンダルーがあった。これは食べてみたかったカレーだ。夜19時からのオープンで、2時間ほどある。他の店を見たり、スーパーでスパイスを物色したりしているうちに19時を過ぎた。が、いつの間にか、インド料理店から遠ざかってしまった。
さて、戻るかやめるか。戻れば必ず食べたいカレーにありつける。やめたら他でその料理に出会えるかどうかの保証はない。サブとはいえ目的を果たせるのだから戻るべきだという気持ちもある。でも、流れ流れて距離的に離れてしまった店にわざわざ戻るというのが、なんとなくいい判断な気がしない。それなら、そのカレーはあきらめて、その時点で次の予定を組みなおしたほうがいい。アレンテージョ地方の料理を食べに行ってみたいと思っていたから、そちらを優先することにした。
ちなみにアレンテージョ料理は、本来の旅の目的にはない行為だ。カレーの探求につながるわけではない。それでも向かう。すると、その店にたどり着く途中に別のインド料理店を見つけた。メニューを見てみると、ラムビンダルーがあるじゃないか! おお。結果、予定通りアレンテージョ料理を食べた後、僕は2軒目をはしごして、ラムビンダルーを食べることができた。
たまたま運がよかったといえば運がよかっただけだけれど、仮にその日、ラムビンダルーを食べられず、目的と関係ないアレンテージョ料理だけを食べて旅を終えることになったとしても、目的を十分に果たせなかったから旅としてはイマイチなのかというとそうではない、と思っている。例えば、今回、インド・ゴア州のポークビンダルーという料理(ポルトガル料理の影響を受けて生まれた料理)の原型となっている豚肉料理を求めて街を歩いた。マデイラ地方の料理だから、その専門店に2軒、足を運んだけれど、どちらも休みだった。結局食べられずじまいだったのだけれど、そのことだって、食べられたほうがよかったとは言い切れない。
そうそう、カメラをホテルに置いたまま出かけてしまったりもする。目的の駅について歩き始めてから気づく。戻ろうと思えば戻れなくもない。でも、戻らない。取材のために来ているポルトガルでカメラを忘れたら何しに来たのかわからない。でも、忘れたなら忘れたで、カメラがない前提で何ができるかを考える。
どれもちっちゃな話だけれど、旅の最中は常に「行くか戻るか」、「やるかやらないか」、「あれとこれとそれのどれを取るのか」、いくつも判断を迫られるタイミングがある。そのたびにベンチに腰を下ろしてゆっくり悩むわけにはいかないから、ちょっとしたことについて短い時間で判断を繰り返している。それが感覚の訓練になっているような気がするのだ。
そして、もうひとつ訓練しているのは、思うようにいかない事態に対する自分の身の置き方や気持ちの持ち方だ。僕は基本的に「あったらあったで、ないならないで」の精神だし、「たいていのことはなるようになる。なるようにならなければあきらめればいい」の精神だから、あまり自分のみに起きる事態に対してクヨクヨすることはないのだけれど、旅先では具体的にそんなことはいくらでも身に降りかかる。
目的はキッチリ果たせないくらいがいい、と思う。
思うようにならない旅だから、また旅をしようと思うのだろう。

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