カレーになりたい 180602

チャイの学校という楽しい場があって、大阪へ行ってきた。
カレーの学校の卒業生が企画したもので、講師は、「カンテグランデ」というカフェで34年間チャイに関わる仕事をしてきた神原さんという男性だ。
「チャイの旅」という本も書いていて、僕はいつかお会いしたいと思っていた。
3時間かけてトークとチャイの作り方と楽しい時間だった。
授業の後に懇親会がある。
そこで僕は神原さんに聞いてみたいことがあった。
「ふだん、どこかのカフェやレストランでメニューにチャイを見つけたら、飲みますか? 飲みませんか?」
「僕は飲みませんね」
想像していた答えが返ってきた。
かつて、コーヒーハンターの川島さんにお会いしたときも同じ答えだった。自分の淹れたコーヒー以外はほとんど飲まない。
そして、彼らと同じというにはちょっと気が引けるけれど、僕も、もう6~7年ほどの間、カレー店に積極的に足を運ぶことはしていない。誰かが誘ってくれたときはともかく、能動的に外でカレーを食べたいという気持ちがわかない。
神原さんはその理由をストレートに話してくれた。
「自分で作ったチャイのほうが絶対にうまいから」
川島さんもきっと同じはずだ。
そして、僕もそうだ。
自分の好みは自分が一番わかっていて、それにピタリとはまるカレーは自分で作るのが一番なわけだから、どこかでカレーを食べてそれを超えることはない。僕の作るカレーが一番うまいと思っているわけではない。一番自分の好みに合っているということだ。
ともかく、そのことについて、それがどうしてなのかについて、神原さんと話したかった。
神原さんは、かつて、横尾忠則さんが、インタビューで「40代半ばくらいのときに他人に興味がまったくなくなった」というような発言をしていたことを教えてくれた。それを読んだ時に自分の今の状態もそういうことなのかも、と思ったそうだ。
自分の器の中に(神原さんはスポンジだと言ったけど)、美術に関する表現に関することを詰め込むだけ詰め込んでそこが飽和した時、他のことを入れ込む余地がなくなる。うまく説明できないけれど、神原さんは、チャイに関してその状態になっているのだという。
僕もカレーについてその状態にある。
なんというのかな。
インプットができないというわけではない。
インプットしたいこと、これから探求したいこと、学びたいことは無限で尽きない。だからキャパオーバーしているということではなく、誰かが作るカレーに関心を持っている余裕はない。自分自身がカレーと向き合うことに集中し、すべての時間や労力をそこにかけたいという気持ちになる。
僕はまだまだレベルが低いけれど、コーヒーの川島さんもチャイの神原さんも僕よりも20歳ほど上だから、僕もこのまま20年、カレーのことをし続けたら、よりハッキリとカレーとどう向き合うかを考えて動くようになるのだろう。
神原さんがこう言ったことが忘れられない。
「僕はただ、チャイの聖人になりたいだけなんです」
チャイの聖人。
すごい。
僕はさすがにカレーの聖人に、とは言えない。そんなことを言えるようになるのは、それこそ20年後かな。でも気持ちはやっぱり同じだと思った。「カレーとは何か?」という問いに普遍的な答えを出すことが僕の人生の目的だ、と自著にも書いた。そのことだけを考えて生きていきたい。
神原さんのように20年も先を走る先輩がブレずにチャイに向かっている姿は僕にとってとてもいいお手本だ。出会えて、話ができて、本当に良かったと思う。
 

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