カレーになりたい 180809

テクノロジー系?某企業のコンピューターサイエンスラボラトリーを訪れ、とある研究者とお話をした。とても刺激的だった。
「答えや正解を人は欲しがるけれど、知れば知るほどそれが簡単ではないことに気づく」という話は、つい最近、ずっと考えていたことだったので、全く同じスタンスにいる人がここにも! と興奮した。
カレーの調理(作り方)について僕は昔から、「サイエンス」か「カルチャー」か「ノスタルジック」か、の大きく3方向のどの切り口から語るのかを分けて考えるべきだと思う、と発信してきた。
これとは別の視点でずっと考えていたことがすこしだけ整理できる会話になった。
それは、カレーという料理(味わい方)について。
「食味としてのおいしさ」、「健康作用」、「栽培・調理スタンス」を分けて考えるべきじゃないか、ということだった。
彼女(研究者さん)は、普通の農法と有機農法と自然農法などによるいくつかの野菜の成分分析と味覚評価を細かくDATA収集している。何がどう違うのかについての研究結果をさわりだけ話してもらったが納得のいくことが多かった。
たとえば、昨今だと、「有機=おいしい=体にいい」というイメージが強い。「有機」は栽培スタンスであり、「=体にいい(健康作用)」とも「=おいしい(食味)」とも限らない。それは別の話である。有機でおいしく体にいいものも確かにある。でも、有機でまずくて体に悪いものもある。
そのカレーは、おいしくしたいのか、体に機能させたいのか、正しく(?)作りたいのか。それは別々の概念だ。
「食味」は人それぞれ官能チェック(好み)によるものだから、正解は食べた人の中にだけある。「健康作用」も人それぞれ。人によって作用は違うが、正しく見極めれば効果は大きい。「栽培・調理スタンス」は、作る人の姿勢や哲学だ。ここは大事だけれどちょっと怪しくもある。
たとえば、僕は「自分の作るカレーに使う材料の正体はすべてわかっておきたい」と新刊で書いた。具体的に言えば、「トマトは使ってもトマトケチャップは使わない」と。それは僕の哲学であり美学のようなものだ。ただ、それを「そのほうが体にいい」とか「そのほうがおいしい」ということをもっともらしくくっつけてしまうといかがわしくなる。確固たる根拠がない限り、そういうスタンスは取りたくない。
たとえば、僕は、「おいしいカレーを作るために、おいしくしすぎないように気をつけている」と新刊で書いた。これも僕のスタンスの表明であるけれど、そこに別の視点の根拠を無理やりくっつけようとはしない。「僕はそういう考えです。でも考え方は人それぞれですよね」としている。
「スタンスの表明」は、もっともらしい根拠をつけると強力なメッセージになる。だからこそ、(サイエンスラボでの会話でも出たことだけれど)この分野は、やり方を間違える(?)と一種の宗教のようになりかねない。
僕が最近ちょっと興味を持っている天然酵母について、シマパンの島君が「ものによってはちょっと宗教っぽいんだよね」と言ったのは、同じような視点だと思う。天然酵母という「スタンスの表明」を「おいしさ(食味)」や「体にいい(健康作用)」と合わせて訴求するなら、確固たる根拠が欲しい。
まあ、最終的には、人それぞれ、好みで決めればいい。信じる者は信じればいい。ということだと思う。僕はただ単純にそういうもろもろのことに好奇心が沸く。もっと知りたいと思う。もっともっと勉強して、色々と知って、知ったうえで結論は出さない。これが正解だとは言わない。
僕はいつも、「僕はこうしている」とはいうけれど、「みなさんもこうしましょうね」とは言わないようにしている。その差は大きいと思う。
「知れば知るほど正解を求めることの難しさを前に寡黙になる」というあの話は、これからもいろんな場面で思い出すんだろうなぁ。

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