カレーになりたい 170906

15年近く足を運べていなかったカレー店がある。吉祥寺の「リトルスパイス」だ。15年も前のことだから、15年が正確かどうかも自信がない。10年以上であることは確かだ。ずっと気にかかっていて、でも、なかなか吉祥寺という街自体に縁がないのか、行けずにいた。この10年で、2度ほどは店の前に立ったことはあったが、あいにく、どちらも店は閉まっていて行けなかった。
店主の小松さんという女性とは、「リトルスパイス」の前身となる六本木の「ボンベイカフェ」(だったかなぁ)の頃から顔見知りではあった。16年ほど前に出版した「神様カレー」という本で取材をさせていただく前後は、とにかく、よく「リトルスパイス」に足を運んでいたし、小松さんとも親しくさせていただいていたから、ずっと行けてないことは、ずっと気にかかっていたのだ。
そして、ついに、このときはやってきた。
吉祥寺で、「スパイスマラソン」というイベントがあり、その会場である「キチム」が近いため、イベント前に駆けつけた。2階にある「リトルスパイス」に向かって階段を上がる。ドキドキ。ちょっと緊張しているのがわかる。小松さんはまだ元気でいらっしゃるのだろうか? ご本人が店にいず、いまはカレー作りと店は従業員にまかせています、的なことは少なくない。そして、仮にお元気だったとして、僕のことを覚えてくれている保証はない。
扉は開いていた。暖簾をくぐるとカウンターだけの店内にお客さんは独り。まだ18時前だ。カウンターキッチンの中にいたのは、小松さんだった。急激に嬉しくなったのもつかの間、目が合ったときの小松さんのリアクションは、一見さんに対するものだったから、ちょっと落ち込んだ。
そうか、覚えてくれていなかったか。ま、仕方がないよな。10年以上も顔を見ていないお客の分際で自分のことを覚えていてくれたらと期待するのは、ずいぶん身勝手なことだ。
気を取り直して、メニューを見ると、大好きだったブラックカレーがちゃんとある。サラダと一緒に頼んだ。カウンターの右3つとなりにいる男性のお客さんは明らかに常連客さんのようで、親し気に話をしている。
僕は本を開いて読み始め、カレーを待った。運ばれたカレーを食べると、昔と同じ味がしておいしい。食べながら、小松さんに声をかけるべきかをずっと考えていた。やはり、今日のところはやめておこうかな。これをキッカケに何度も来ればいい。いつか、会話をするときが来るだろう。そのときには「昔、取材とかでお世話になった……」と自己紹介すればいいじゃないか。
小松さんが今も元気でお店に立ち続けていることを目の当たりにできただけで僕は幸せだった。でも、心のどこかで、「やっぱり話がしたい。帰りがけにでもいいから声をかけようか」と思う自分と、「いや、こういうときは無理に声をかけないほうがいい」と思う自分と、「ひょっとしたら、どこかで小松さんが僕のことを思い出してくれるんじゃないだろうか」と思う自分が入り混じる。
食事を終えた常連さんが支払いをして席を立った。帰り際にひと言。
「今日もおいしかったです」
今日も……。今日も、か。彼は昨日も一昨日も来たのかもしれない。そんな風に店を愛するお客さんたちが「リトルスパイス」を支えている。やっぱり15年ぶりにやってきた僕が声をかけるべきではないのだ。
常連客が店を出ると、店内は、小松さんと僕のふたりだけになった。なんとなく気まずい空気が流れる。早く食べ終わろう。イベントの開始時間も迫っているし、逃げるようにして店を出たくなった。焦って3本目の鶏手羽元にかぶりついていると、小松さんが僕を見て、こう言ったのだ。
「間違ってたら失礼ですけれど、水野さんですか?」
「はいっ!!!」
間髪入れずに口から出た返事には同時に「うそっ!?!?!?」という感嘆の気持ちがこもった。覚えていてくれたんだ……。一瞬、涙が出そうになった。
「ああ、やっぱり。もしかしたらそうかも、と思ったんだけれど、違ってたら失礼だし、どうしようか、と」
「いや、僕もどこかでご挨拶したいと思いつつ、でも覚えてらっしゃらないかも、と思ってどうしようか悩んでいたんです」
「とんでもない。すごいご活躍で。私なんか声かけるのもおこがましいですよ」
とんでもないと言いたいのはこっちのほうだった。店は17年を過ぎたという。17年間、カウンターに立ち続けている小松さんに比べたら、僕の活動なんて活躍とはとても言えたモノではない。
「水野さん、ちょっと痩せました?」
「まあ、15年近く経ってますから、そりゃ、痩せたり太ったりしますよー」
他のお客さんが来て、僕も出なくてはならず、長くは話せなかったが、それでもたった数分だけでも昔と同じような感じで話ができたことが本当に嬉しかった。
「次はゆっくりお酒が飲めるタイミングで来ますね」
もし、小松さんにお会いすることができたら差し上げようと思ってカバンに忍ばせていた本を渡し、店を出た。イベント会場への道を歩きながら考える。15年間、会っていなかった自分のことを覚えてくれている。その間もずっと無数のお客さんを迎え入れてきた人が。こんなに幸せなことがあるだろうか。僕はもっともっとご無沙汰しているカレー店に足を運ばなければならない。これでもう吉祥寺という街に向かう理由を考える必要はなくなった。今日は本当にいい日だった。

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