別に怒っているわけではない。
生まれて初めての香港で、10年以上前から食べたかった牛すじカレー麺を食べ、すがすがしい気持ちで店の外に出て、傍らのベンチに座っていたら、突然、頭の上に生暖かい鳩の糞が降ってきて、前髪も右手も白シャツもベシャッと汚れ、頑張ってふき取ったけれど、夜までそのままの恰好で過ごさなければならなくなったからといって、
別に僕は怒っているわけではないのだ。
　　
別に動揺したからではない。
夜にホテルにチェックインし、すぐ近くにあるこのあたりの最高級ホテル、ペニンシュラの最上階BARで独り、カクテルを頼み、東京にいたら一人でBARなんて絶対にいけないタイプなのにも関わらず、1時間以上、ボーッと酒を飲んでいろんなことを考えて、高いお金を払ってほろ酔いになって自分が泊まるホテルに戻ってきたからといって、
別に僕は動揺したからではないのだ。
　　
別に言い訳したいわけではない。
鳩の糞事件の直後に避難場所として入った「agnis b cafe」なるところで、一息ついてアイスカプチーノ1杯で2時間もの間、黙々と原稿を書き続け、「やっぱり旅はいいなぁ、仕事がはかどるな」とか、「この調子なら夜、ホテルでもためてた原稿を一気にしあげられるな」とか思っていたのに酔っぱらって寝てしまったからといって、
別に僕は言い訳したいわけではないのだ。
　　
別に怒っているわけではない。
ただ、ちょっとだけ、頭上の木の枝から飛び去っていったあの鳩に対してムカついているだけなのだ。香港を嫌いになりませんように……。