カレーになりたい 171121

2年以上ご無沙汰していた船橋「サールナート」へ。
店主の小松崎さんとは、話し始めるといつも2時間くらいがあっという間に過ぎるから、他のお客さんの迷惑にならないよう、ランチの閉店時間に伺うことにしている。必然的にカレーは売り切れているから、まかないを食べさせてもらう。
「もうないよ」
「なんでもいいです」
「なんでもって、ここから何つくろっかな」
「僕、朝から何も食べていないんですよね」
「またそうやってプレッシャーかけて……」
とかなんとか言いながらキャリアも実力も抜群の小松崎さんは、パパッとメニューにないおいしいカレーを出してくれる。最後のお客さんがいなくなったあと、やっぱり僕たちは、2時間以上、いろんな話をした。本音を打ち明けられる人がいるのはとっても嬉しいことだ。つい甘えてしまう。
たいていは、悩みを打ち明けてスッキリして、そのまま話し込んだ結果、新たな悩みを持ち帰ることになる。
つい最近、カレーの学校の卒業生さんが店を訪れたそうだ。
「『水野先生、本を出しても宣伝とかしないで、大事なページをコピーして配っちゃうんです』って言ってましたよ」
「確かにそうですね」
「らしいな、と思って」
自著を教材にして生徒に強制的に買わせる大学教授もいるから、買ってくれ、と宣伝くらいはあってしかるべきだということなのかもしれない。でも僕は学校の授業が面白くなればいいんであって、生徒さんに僕のアウトプットを宣伝したいとは思わない。興味のある人は何も言わずにアクションを起こしてくれるだろうし。
そもそも、なんのために? 多くの人に読んでほしいから? 影響力を強めたいから? お金がたくさんもらえるから? またしても、「なんのために」議論を展開してしまい、「そういうのは別にあんまりどうでもいいんですよね」と愚痴(?)をこぼしてしまった。
「でもね」
小松崎さんが意外なことを口にした。
「世の中、多くの人は何かやりたいことがあって、それをするためにお金が必要で、だから、お金を稼ぐために一生懸命働いているですよ。そういうのが普通だと思っている人たちからすると、水野さんみたいにお金と関係ないところで人生を楽しむ術を持っている人っていうのは、なんていうのかな、鼻持ちならないヤな奴に見えることもあるんだよね」
ええ!? だって、それで誰かに迷惑をかけているわけじゃないんだし……、と口をついて出そうになったけれど、我慢した。小松崎さん自身、そのことをお客さんに教えてもらったのだという。
30年近く前に店を開いてから、彼は、店の宣伝めいたものは一切していないし、ネットでの評判を見たことも一度もないという。それは昔から僕も知っていた。
そういうものは気にしても仕方がない。自分がやるべきことは、ただ、店に来てくれるお客さんを大事にすることだけなんだ。売り上げをもっと上げたいとか考えているわけではない。このキャパでできることをし続けるのが自分の楽しみなんだ。
そんなようなセリフを仲のいい常連さんには昔からよく口にしていたという。考え方としては僕も全く同じである。ところが、あるとき、小松崎さんはお客さんにこう言われてハッとした。
「でもね、マスター。それは、ここがいつも行列していてお客に困らない店だから言えることなんですよ。お客さんがなかなか集まらなくて悩んでいる店の店主は、ネットの評判だって気にせずにはいられない」
そうか。自分の考え方やスタンスを言葉にしているだけだけれど、確かにそういう店主たちからすれば感じの悪い、調子に乗った発言に聴こえるのかもしれない。
僕はこれまでそういう角度からこのことを考えたこともなかったから、ひやりとした。こっちは、「ゼイタクするつもりはない」と言っているのに「ゼイタク言うなよな」と思われたり、「ゼイタク言える奴はいいよな」と言われたりするリスクがあるというのだ。不思議な事態だと思う。非常にこみいっている。でも確かにそれで気を悪くする人がいるのだとしたら、気をつけなければいけないと思った。
「また悩みが増えちゃいましたよー」
僕が笑いながらそう言うと、小松崎さんはこう言った。
「でもね、そういう声は無視していいんだってことが最近、わかったんだよね」
「いやぁ、そううまくやれるかなぁ」
「まあ、年齢のこともあるのかも。僕みたいに60歳を越えるとね、さすがにそういうのはいいとしようかって気持ちが出てくる。水野くん、いくつ?」
「43です。年明けに44になります」
「そうか、まだかもしれないねぇ(笑)」
そうか、まだダメか。ほとんどの人にとってとるに足らない些細なことに対して、大きな喜びを見出して前のめりになるのが自分の生き方なのだ。大勢の熱狂や注目をよそに、すみっこのほうでコソコソしながらささやかな喜びにニヤリとする気持ちの悪い存在が自分なのだ。仕方ないじゃないか。
この日だってそうだ。小松崎さんが残り物のソースや具を使って“適当に”作ってくれたまかないカレーには、偶然にも(?)、僕がカレーのトッピングで一番好きなゆで卵が半切りの状態で無造作に添えられていた。僕は茹で卵が出てきたことに嬉々として、しばらく幸せな日々を送れると思ったし、翌日になった今でさえ、あの茹で卵を思い出してしみじみと楽しんでいる。ここ最近で一番おいしい食べ物だったなぁ、なんてゼイタクなことなんだろう、なんて思い起こしながら、幸せを実感しているのだ。
ゼイタクとは、全く不可解な概念だ。

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