カレーになりたい 180610

好きで好きでたまらない、みたいな感情は、あんまりいいものじゃないのかもしれないなぁ、と昔から思っている。
そう僕が思うのは、きっと僕が臆病者だからなんだと思う。
好きで好きでたまらなかった自分がそうでもなくなることが怖い。
自分の何かを好きで好きでたまらなかった人がそうでもなくなることも怖い。
そんな未来が待っているくらいなら、それほど好きにならなくてもいい、と思ってしまう。
AIR SPICEにすごく嬉しいコメントがあった。

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私、今年5月からエアスパイスさんを注文しています。
で、5月6月に共通して言えることですが、カレーがあまりにも美味しくできるので、心底びっくりしています。
今までの手作りカレーになかった〝立体感〟があります。スパイスすごい!
水野さんすごい!!!です。
で、5月も6月もカレーをレシピの分量通りつくったのですが、あまりにも美味しいので、1日で食べきってしまいました。一人で。
エアスパイスが届く日が待ち遠しいです。
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ま、要するに絶賛してくれているのである。嬉しい。嬉しいけれど、手放しでは喜べない。
この絶賛は、きっと永遠には続かないのだろう。そんなことに永遠を求めること自体、頭がおかしい、か。
すごいとあのときは思ったけれど、そうでもなかったか、とか、
すごいとあのときは思ったけれど、その気持ちは薄れてきたな、とか。
まあ、仕方がないことだ。
なんか、ともかくいい具合で「まあまあだね」みたいな感情が続いていけばいいと思う。
決定的な理由はないのだけれど、なんか、いいんだよ、みたいな状態がいい。
最近、よく耳にする「神だ」とか「天才だ」とか、「◎◎すぎる」とか、その手の表現に片っ端から拒絶感があるのは、きっと僕が臆病者だからなんだろう。
とある雑誌の編集者と話をしていて、臆病者の自分に久しぶりに気づかされた。
僕は、5年ほど前に雑誌のカレー特集や雑誌のカレー取材に登場するのを辞めた。それ以来、どうしても断り切れないもの、ほんの数回を除き、すべてお断りしている。
それがなぜなのか。
とてもありがたいことに5年ほど前までの何年間かは、雑誌でカレー特集といえば必ずと言っていいほど声をかけてもらう時期が続いた。僕も紙媒体が好きだから、片っ端から受けて頑張った。
でも、あるとき、ふと思ったのである。
カレー特集だ、と思って手に取り、中を開くたびに水野がいる。
「なんだよ、また水野かよ……」
誰かを落胆させてしまうこともあるだろう。
具体的に落胆の声を聞いたわけではない。でも、「やっぱり載ってましたね」、「絶対に出てるよね」といった声は何度も聞いた。それで臆病者の僕は勝手に先回りしたのである。
このままいくと、いろんな読者から「もういいよ、水野は」と思われる日が来るに違いない、と。
僕自身は、常に自分なりに新しいことを模索し、やりたいことをやって楽しんでいるから、自分が積極的にアウトプットしたいことはアップデートされていく。でも、一方で、メディアや時代が変わっても、世の中が求めるものはそんなにめまぐるしく変わらない。
僕からするといつも同じような企画で声がかかり、それにこたえてやっていると、自分の関心とアウトプットとの間にどんどんギャップが出てきてしまう。
もう僕はそこにいないのに、あたかもそこにまだいるかのうように誌面にのる。そんな自分に嫌気がさしてきたのも事実だ。
そして、読者は、きっと「またかよ」と落胆する。
……かもしれない。
かもしれない未来が待っているかもしれないのなら、僕は前もって身を引こう、と思ったのである。
情けないけれど、それは、僕が臆病者だからだ。
好きで好きでたまりませんと言われたら、好きで好きでたまらない自分でいつまでもいられるかどうかの自信がないから、いや、きっと、そうじゃない自分にまもなくなってしまうだろうから、僕は身を引くのだろう。
AIR SPICEは、まあ僕がやっているものだけれど、僕自身ではないから、いいと思ったときに使い、そうでもないときに離れ、また興味が沸くことがあったら、そのときに再開してくれればいい。
まあ、その点は気楽かな。
臆病者でいることは、自分に正直でいるために、大事なことなのだろう。
臆病者でいることは、自分が現役でいるために、大事なことなのだろう。
僕の場合は、たぶん、そうだと改めて思った。

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