カレーになりたい 171113

なんのために。
なんのために、という問いは、昔も今も常に自分の中につきまとっているものだ。ときどき顔をのぞかせては僕を悩ませる。
なんのためにカレーを作るのか、なんのために原稿を書くのか、なんのためにイベントをするのか、なんのために旅に出るのか、なんのために、なんのために……。すべてのことに対して理由や目的を求めてしまうから、最終的には、なんのために生きるのかみたいなことになってくる。大雑把に言ってしまえば、誰かのためか、社会のためか、自分のためか。すべてが切り離せないことだとはわかっているけれど。
久しぶりにロンドンに来て、いくつかのレストランを回った。カジュアルモダンインディアンのパイオニアとして、イギリス人にとってのインド料理の概念をがらりと変えたDishoomは、相変わらずの大盛況。コベントガーデンの店は、200席近くあっても常にそとに何十人もの行列があったが、すでにロンドン市内に5~6軒を構えている。ホテルの近くにあり、朝食を食べに行ったKingsCross店は、300席近い壮観な造り。朝9時には客でッごった返している。Brixtonの小さなプレハブで細々と営業していたKricketは、SOHOに立派な店を構え、キラキラと輝いていた。モダンスリランカンとも言えるHoppersは相変わらず予約が取れない人気店。Gunpowderは小さな小さな本店のそばにコンセプトを変えた店を2軒展開し、さらに近々、大きなGunpowderのオープンを予定しているという。モダンタイのSmoking Goatも2店舗目を展開している。
なぜ店は人気が出ると規模を拡大するのだろうか。なんのために? 楽しみにしてくれるお客さんのため、だろうか。行きたいのに行けないお客さんが世の中にあふれていくことを放っておけないということなのだろうか。それともお金を儲けるために? お金を儲けるから規模を拡大できる。2店舗目や3店舗目や、もっと実験的なスタイルややりたくてもやれなかったことに手が出せるからいい、ということだろうか。現在、Gunpowderのレシピ本を作っている(!)という友人からシェフの考えを聞いた。
「3年くらい、どんどん店を拡大してお金を手にしたら田舎に引っ込んでゆっくり暮らしたい」
そう言っていたそうだ。確かに自ら立ち上げた店を大きくし、価値を高めたら売却して大金を手にし、そこからゆっくりしたいとか次の事業を考えたいとか、そういうマインドの人は日本よりも海外の方が多いと聞いたことがある。僕が知る周囲の事業家の多くは、利益を拡大することに価値を見出している。「多くの人を幸せにする行為だから」という理由が大きいし、「従業員も幸せにできる」という理由もよく聞く。ただ残念なのは、KricketもDishoomもどこもかしこも拡大してクオリティが落ちている印象を(僕が)持つ点にある。昔は小さくてもとんがっていて唯一無二の存在だった。でも、拡大するとなんとかくどこかみたい、誰かみたい、な感じになってしまう。それが僕にとっては落胆の原因となる。多くの人に向けていけばそうなるのは必然かもしれない。たった一人の誰かのために作るカレー以上においしいカレーは存在しないと思うから。
AIR SPICEという小さな事業を立ち上げた僕は、一応、会社の代表取締役であり、事業家の端くれになるのだけれど、なかなかその手の「スケールして利益を追求する」というある種、真っ当な考えに同調することができない。「なんのために」が邪魔をするからだ。グルグル考えた結果、「自分は事業に向いていない」という結論になる。じゃあ、なんのために僕はカレーの活動しているんだろうか。自分は何者なんだろうか。
はっきり言ってこんなことは考えても無駄なことなのかもしれない。ときどき顔をのぞかせるこの問題を近しい編集者に話したところ、こんなメールが来た。

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昨日おっしゃっていたこと、もんもんと考えていました。オチのない話なので、お返事などは次お会いしたときにで結構です。
思ったのですが、水野さんは、表現者なのだと考えるとしっくりくると思いました。表現者のモチベーションの根幹がみんなのため、というのは考えづらいなと。そんな小説家、聞いたことないです。
道なき道を見出す、創造を常とする表現者は、自分のためであって然るべきかなと思いました。
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あるタレントさんは、「物事の価値は喜んでくれる人の数で決まる」と言っていた。事業家たちはみんな「お客様の幸せのため、従業員の幸せのため」と言う。だから数や規模を求めるのかもしれない。ある著者は、「売れない本は紙くず同然だ」と言った。これも同じ考えにあるのだろう。
一方で、じゃあ僕のやりたいことは、と突き詰めれば、「自分のため」になってしまう。そのことが常に小さなコンプレックスになっている。やりたいこと、アウトプットしたいことがいつも先立つのは自己満足にすぎないんじゃないか、と。ただ、その過程でどこかの誰かがちょっと喜んでくれていることが実感できたりして、それは大事にしている。でも、そうやって喜んでくれる人をもっとたくさん増やしたいとは思わない。自分の手の届く範囲でいい。
たまたま僕のことを見つけてくれた誰かさんが、価値を感じてくれたら少しだけ付き合ってほしいし、価値を見出せなかったら無視して通り過ぎてくれればいい。
喜ぶ人が今の10倍、100倍になることよりも、自分のアウトプットするものの精度が今の10倍、100倍になることのほうを重視したい。その手段としてお金を稼ぐということを選ぶ人もいるだろう。でも、僕がやりたいことには大きなお金は必要としない。大学時代に6畳ひと間でずっと生活していたが、今でも気持ち的に、自分のやりたいことは昔と変わらず6畳ひと間で生み出せることで十分だと思っている。
ニューヨークのイベントに出てカレーを作ることも、パリやロンドンでカレーを作ることも、新しいヒトと出会ってコミュニケーションすることも、いろんな店を食べ歩いて自分にないエッセンスをインプットすることも、なんのためにそうするのか、と自問自答すれば、すべて自分の表現のためなんだと改めて思った。
海外に呼ばれたり勝手に行ったりして経験を積むことは、ある人にとっては、「そこで箔をつけて今後の活動のステージをあげられる手段だ」と思うかもしれないし、別の人にとっては、「そんな風に遊んで?いる暇があったら国内で事業拡大のために汗をかくべきだ」と思うかもしれない。でも、僕はどちらでもない。ただ、自分にとって刺激的で楽しいインプットが嬉しいし、それが次のアウトプットを生む循環がとても心地いい。ここ2か月ほどであちこちを旅して改めてそう感じることができた。少なくとも今は。次はどこへ行って何をしようか。自然とそう考え始めている。
表現者かー。
今までで一番しっくりくる言葉かもしれないと思った。でも、きっとそのうち、「なんのために僕は表現するのだろうか」みたいなことで悩み始めるに決まっているのだけれど。


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